安楽死マシン登場。私は安楽死には賛成です。
非常に興味深いアイテムが産み出されました。
ファスト安楽死マシンです。その名前からはハンバーガーの注文と同じくらい手軽な印象を受けます。
1分で死ねる「ファスト安楽死マシン」開発の博士、まずは“VRで死を体験させる”と発表! 尊厳死めぐる議論紛糾!
この手の議論は今後も一生続くものだと考えます。
タイトルにも書いた通り、まずは賛成の私の持論から。
当然、死なない方がよい。というのは私も大前提にあります。
それを踏まえた上での主観であることを留意して読み進めてください。
大きくわけて、二つのパターンがあります。
一つ目はQuality Of Life。
QOLの観点からいって完全にありです。
ガンや対症療法で向き合っていく類の難病、事故による植物人間状態や、四肢の切断など、人を絶望の奈落に叩き落とす病気や症状はあげればキリがありません。
ここで、「それでも生きていく」と決断し、生あるうちはそれを全うしようと前を向ける人はとても素晴らしいです。本来はそれが理想です。
そうは思えない人はどうでしょうか。同じような価値観を持てるでしょうか?健常者の理想に賛同できるでしょうか?
同じように、その地獄を乗り越えた人の言葉だとしても届かない場合はあります。
今挙げた話は、症状のある本人の観点からですが、親族の方々としてはどうでしょうか。
重度の要介護者となってしまった場合、家族が交代でお世話をできるものでしょうか?
それが叶わないとして、病院に毎月高いお金を払って(語弊を恐れずに言うと)生き長らえさせることが、お互いのためなのでしょうか?
人の数だけ答えがあるものですし、家族の数だけ議論が生まれます。
しかし、それがターミナルにある 選択肢として選べる という安心感は、本人だけではなく、ひとつの家族の考えるQOLを手伝えるものだと私は考えるのです。
もうひとつは自殺です。
大切な人がいる。家族がいる。まだまだやりたいことがある。生きたくても明日を生きられない人がいる。
これは、すべて「自殺したくない・しようとも思わない人」の意見です。
もちろん私も先に書いた理由も全て満たしていますし、他にも多くの理由があるので死ぬつもりはありません。
すべての理由が見つからず、そして今日・明日を生きるよりも、死ぬことのほうに魅力を感じる人が自殺するわけです。
生きていたらきっといいことがある。救われるときもある。楽しいことにきっと巡り会う。
私はそう考えますが、それを自殺したい人に説いても理解できるとは思いません。
あるいは、理解はしているがそれでも死にたい ということなのでしょう。
人間以外の動物は、本能的にその生を全うして死んでいきます。
寿命がきて老衰で死ぬのか、サバンナで肉食動物に捕食されるのか、不慮の事故で生命活動を維持できなくなるのか はわかりませんが、そのときまで生きます。自然の摂理です。
人間だけは、この限りではないんじゃないか? という持論です。
人はその弱さから、文明を生み出し、武器を手に取り、思考し、生態系のヒエラルキーのトップに君臨しています。
他の全ての種族と違うのは、「言語化・建設的思考」でしょう。
言語として自分の考えを伝えられる能力があるからこそここまで発展しましたし、建設的思考(例として、酷暑で長時間外にいると、体調を崩す危険性があるから外出は控えよう。カレーにはジャガイモとニンジンと〜色々な具材が必要だからそれを買いにスーパーにいこう) があるから、いいことも悪いことも事前に想像することができるわけです。
ただこれは、種としての特性であると同時に、諸刃の剣のような側面も持ち合わせます。
言語 という能力があるから、人にうまく伝えられないという葛藤や悩みが出てきます。また、話すことが上手な人は社会的に認められますが、その逆は評価されないという一面もあります。
建設的思考には、その能力がさらに顕著に表れます。
「なんで事前に対策を講じなかったんだ」「どうしてそんなこともわからないんだ」と上司に言われたら、誰だってへこむでしょう。
どちらも人と比べられてしまうことで、大きな劣等感を生みます。
「自分なんて...」と考えるようになってしまうと負のスパイラルに飲み込まれ、生きる気力がなくなるのも当然のことです。
人々は、常識=みんながそう思っていると「自分が信じている概念」から自殺なんてよくない!といいます。これがまた人を苦しめると私は強く思います。
いわゆるかまってちゃんではない、本当に死にたいと思って準備している人は、そこが目的で生きているんです。
自分の生きる目的が 死 そのものである場合は、そこまでがその人の寿命である というのが私の考えです。
精神的に殺されている状態で生きていてもいいことなんてない。
そう思う人の自殺とは 思想の自由そのものですから、私には理解でもできませんが、「他人に迷惑をかけない範囲でやりたいことをやる」という点では自由度の範疇を超えないと思っています。
生きているうちにいろんな書籍や文献を読みますから、もしかしたら反対派になることも考えられますが、2018年7月現在の私は、無論賛成派です。
さて、
長々と持論を展開してしまいましたが、この「ファスト安楽死マシン」は、
・設計図を無償公開しているので、入手難易度が低い
・事前に「オンラインテスト」で合格し、その後24時間以内でなければ使用できない
・開発者は、「死」を選択できるという状態=すなわち死をコントロールできることが「生」の尊厳を保つと主張している
このような内容で、自殺・安楽死・尊厳死は、「安易に人の生命を終わらせることだ」という世論に対しての答えがあると感じました。
もちろん「安易に生命を絶つべきではない」という考え方は、道徳心と宗教信仰心がごちゃ混ぜになっている日本では完全に定着しています。耳にタコができたら申し訳ありませんが、私もそう考えています。
それでも過去40年を振り返ったとき、日本での自殺者数が年間2万人を下回ったことがない という驚愕のデータがあり、そこに図らずもニーズが生まれていることがわかります。
むしろ、安楽死マシンがあることによって自殺した現場の周りの人々にかかる迷惑を考えたら、必要なものだという解釈にはならないのか?とすら思います。
朝の通勤電車に投身するとしましょう。
自分は死ねたらそこで終わりかもしれませんが、電車を破損させ、肉片を散らかし、人々の交通手段を奪い、この損害賠償はときに1000万を越えると聞きます。
遺族に請求されるわけですから、家族一人と多くのお金を同時に失うわけです。控えめにいってもこれはダメージが大きすぎます。
かけられる全ての人に迷惑をかけてまでも死にたいとなるのであれば、ここに安楽死マシンひとつあれば と思うのです。
何も「そんなものは認められん!」と感情論をぶちまけるのではなく、論理的・合理的に考えましょう。
日本は「未然に防ぐ」という意識が低すぎるんです。
導入して、それを厳しく管理する という選択肢もあります。
例えば、
・ある程度の金額(70万とか)を費用として支払う
・家族一人以上を含む、3人の署名のある同意書が必要
・医師の署名が必要
などなど。
自殺に関しては、うーん、ファスト安楽死マシンを使うのが現実的とは思いませんが、安楽死・尊厳死に関していえば、取り決めをしっかりすれば、非常に実用的なのでは?と考えます。
おそらく導入されるとしても、遠い未来な予感がします。が、もしテストがクリアできるのであれば、日本でも使用できる気がします。
そして、使用されたことが判明してから、日本は動き始めるのでは?
3Dプリンターの使用者が自殺幇助の罪に問われたりして。くだらんくだらん。
情報社会になって、様々なことが選択肢に取り入れられる時代です。
冷徹な言い方ではありますが、本人が死を望み、家族もまたそれを受け入れるなら..現実的な選択肢となり得る状況も少なからずあるのではないでしょうか。